【山梨県とアイオワ州の姉妹交流の経過】
日米で締結された姉妹州県の第1号は、山梨県とアイオワ州である。山梨県とアイオワ州は、1959(昭和34)年の台風災害に対し、同州から見舞として農畜産物(種豚35頭、トウモロコシ1.5t)が贈られたことが契機で姉妹締結した。 〈日米の議決〉山梨:1960年(昭和35年)3月14日、アイオワ:1961年(昭和36年)4月14日 米国との姉妹県州関係としては日本で最初の締結であり、米国大使館の支援もあって、以後全国に姉妹州県の交流が広がっていった。 平成22年度は、山梨側での締結50周年であり、本県で記念行事が実施された。
【アイオワ豚の贈り物アーカイブへのデジ研の取組み】
この日本で最初の米国との姉妹締結のきっかけとなった山梨県に対する台風見舞いと農業振興支援の詳細な記録は山梨県側に残されていないが、当時の映画館で上映された「山梨県政ニュース映画」(昭和35年製作、山梨県立図書館所蔵)に映像が残されている。県立図書館の了解により、デジ研では2014年、一部の画像を郷土学習資料として、複製した。上映画面をカメラで撮影したため、鮮明度が低いことをお断りしておきますが、閲覧者のみなさまにおかれましては、当時の様子を知るための学習資料として活用してください。
【アイオワ豚が山梨県に贈られた経過】
昭和34年は、8月の台風7号と、9月の台風15号(伊勢湾台風)の二つの台風に相次いでみまわれ、明治40年以来の多大な被害を受けた。 その当時、アイオワ州に住むリチャード・トーマス氏は第二次大戦後、GHQ進駐軍の軍曹として山梨県軍政部に駐留していたことがあり、県民の被災に心を痛め、種豚を贈り、農業復興の支援を州内に呼びかけた。 その背景には、戦後、山梨県の八ヶ岳山麓の清里で、キープ協会を創立し、酪農、畜産による日本の農業改革に取り組んでいた米国人(GHQ退役軍人)ポール・ラッシュ博士の影響があると思われる。その当時、ラッシュ博士は米国からジャージー牛などの種牛、ランドレースなどの種豚などを輸入し、清里で育成試験を行い、国内普及を図っていた。 この趣旨に賛同したトーマス氏は種豚を贈って、山梨の畜産振興を支援することを州内の人々に協力を呼びかけた。 山梨に贈られた種豚はランドレース、ハンプシャー、ミネソタ2号という3種で、それまで日本では知られていなかった。 アイオワ豚は、昭和35年1月20日、米国空軍機の協力で羽田空港に到着。横浜の検疫所で検査された後、貨物列車で2月5日、甲府駅に到着。甲府の住吉種畜場(現在の県職員研修所)に納められた。 アイオワ豚は、繁殖力、肉質ともに優れていたため、畜産関係者から高い評価を受けた。その後、県畜産試験場で増殖されたアイオワ豚は、県内各地の養豚農家に貸し付けられ、畜産業の建て直しに大きく貢献しました。県内には全国の畜産関係者の見学が殺到。その結果、全国で新たな外国産種の導入が進んだ。 この親豚の貸付方法は、その当時、ラッシュ博士のキープ協会と農林省が進めていたジャージー牛を農家に貸与する酪農振興の手法を参考にしたと思われる。
県畜産試験場は、昭和38年以降4回にわたり輸入したアイオワ豚をベースに品種改良を重ね、昭和57年から9年の歳月をかけて、系統豚「フジザクラ」を開発しました。現在、山梨県と産業界が一体となり、販路拡大を進めている山梨のブランド豚肉「フジザクラポーク」は、両県州の交流が生んだ大切な宝物となった。(出典は「山梨県公式サイト」「清里の父ポール・ラッシュ伝」などによる)
【アイオワ豚とトウモロコシによる日本農業の変革】
アイオワ豚とともに養豚飼料としてトウモロコシが海を渡ったことで、米国農業のトウモロコシの運命もまた大きく変わった。 アイオワ州から山梨県へ豚たちが空を飛んだことは、単なる食糧支援で終わらなかった。この山梨県への援助によって、日本の畜産業が大きく変わったと言っても過言ではなかった。 まず山梨県畜産試験場では届いた豚の大きさに驚いた。丸々と太った35頭は、いずれもそれまで見たことがないほど大きかった。 一緒に贈られた飼料用のトウモロコシ。それまで日本の養豚では残飯が基本だったが、トウモロコシを与えれば大きく育ち、肉質も甘み豊かで柔らかくなることを、目の前の豚が証明した。 この時期には、日本は経済成長に伴う生活水準の上昇により食肉需要が増加していた。ところが国内には飼料穀物を生産する土地は限られていた。一方アメリカではコーンベルト地帯の肥沃な土壌と技術革新に支えられ安定した穀物生産が可能であり、むしろ生産余剰の苦しみに直面していた。 善意からもたらされた豚の交流だが、結果的に日本の畜産飼料の需要と、米国の穀物栽培の供給とのマッチングをもたらした。 海を超えてやって来た豚たちを見て、日本政府はアメリカからトウモロコシを輸入しようと決意した。 1960年(昭和35年)にアメリカ穀物協会が設立され、その翌年(昭和36年)には最初の海外事務所が日本に開設された。日本がトウモロコシを中心とした穀物を本格的に大量輸入を始めたからだ。農業大国アメリカにとって、農産物を戦略的輸出品目とすることになった歴史的瞬間だった。アメリカのトウモロコシ生産量は、ここから飛躍的に増加していった。 2011年のトウモロコシ生産量は世界で約8億7000万トン。このうち約40%がアメリカ産。日本は毎年約1600万トンのトウモロコシを輸入し、その90%をアメリカから受け入れている。(この項は、アメリカ大使館農産物貿易事務所myfood.jp 特集記事 Vol.11〜による)
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