(写真番号 nua03570031b)
富士吉田市下吉田の小室浅間神社(おむろせんげんじんじゃ)では、9月19日の例大祭に流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。武士が武技錬磨のため、騎馬で狩装束を着けて鏑矢(かぶらや)で的を射る流鏑馬とは異なり、神事として神社に奉納されるものである。春の種蒔き期に富士山から里に降りた神様が秋に御山に帰るとされ、収穫に感謝し、流鏑馬が奉納される。そして翌年の春に神霊が再び里に降りて来るまでの間に争いごと、火事祟り(ひごとたたり)などがないように祈願し、留守になる間の災いなどを馬の走った後の足跡で占う「馬蹄占」が行われる。
流鏑馬祭の準備は多くの人が何日も携わる。正月15日の流鏑馬に馬を出して奉仕する馬主(うまぬし)の申し込みに始まり、様々な打ち合わせ・神事・「切火(きりび)」と呼ばれる潔斎(けっさい)を経て18日宵宮祭、19日例大祭、20日の後祭で終わる。
19日例大祭では、境内に神職、占人、馬主、馬方、氏子総代、祭司、馬が集合し、手水の儀・修祓(しゅばつ=お祓い)の後、拝殿に昇って大祭式が開始される。弓取の儀、的渡しの儀、授杯の儀、出立の儀など厳粛な式が行われる。その後、神職に続き神橋を渡り、馬場へ向かう。 馬場では、馬場見せ、役馬(やくうま)、チラシ、山王様(さんのうさま)の順で進行される。 馬場見せとは、馬方達が馬を走らせて馬場の状態を見せると共に、馬にコースを覚えさせ、慣らすためのものである。 その後、神職が馬場を塩で清めて祓い、本番の役馬の登場となる。神様から選ばれた馬主が馬とともに潔斎を受け、神様のお使いとして流鏑馬をするのだ。役馬はすべて午後行われるが、名称として朝馬と夕馬に分かれており、それぞれ4回ずつ馬場を駆け抜けて弓矢で三か所の的を射る。役馬に乗る人の服装は朝馬が白袴・白の狩衣(かりぎぬ)・赤襷(たすき)・烏帽子(えぼし)、夕馬は白袴・赤の狩衣・赤襷・烏帽子である。役馬に乗るのは、息子や娘婿等、馬主に近い親族である。 出走後、世襲の占人が役馬の走った蹄(ひづめ)の跡を見て吉凶を占う馬蹄占いを行う。 チラシとは、奉仕をして来た馬方達が調練した馬技を披露する機会であると共に、役馬と山王様の走る間に時間があるため客を飽きさせないという意味もある。 最後に山王様である。山王様の馬は矢を射らず、そのまま馬場を駆け上がり神様が御山に帰ることを表している。これを「乗り払い」という。朝馬、夕馬それぞれが山王様として馬場を駆けると、流鏑馬は終了する。 その後占人は、馬蹄占と流鏑馬祭までの様子をもとに占いの結果を半紙に書いて宮司に渡す。20日午前に境内に集合し、清掃を行う。その後祭儀・直会。神職が祭司に結果を印刷したものを渡し、祭司は各地区に伝える。
生活様式が変化して、現在でこそ流鏑馬実行委員会により奉仕者が選出され、流鏑馬神事が執り行われるが、かつては氏子達が家を上げて奉仕したものであった。流鏑馬奉仕は一門の名誉であり、一生に一度でも良いからと強く希望したという。 馬主1人につき助謹者(馬方)が8人から15人位ついた。馬方は潔斎中の馬の世話をしたり、流鏑馬当日チラシで馬に乗ったりする。この流鏑馬神事は血と死の忌を重んずるため、奉仕者の血縁者にその年の初めから祭りの当日まで死者が出ないこと、2ヶ月以前までに出産がないことが何よりの条件となる。 9月13日から19日の間は、馬主の家族は馬に乗る者以外家をでて他所で生活しなければならず、また助謹者は馬主宅で合宿した。馬主宅では、生活道具の一切を清め、飲食はすべて自分たちの手で調理し、世間との交渉を断ち、男だけの生活を営んだ。奉仕者は潔斎をしていない者から直接者を受け取ってはならず、買い物に行っても金銭、品物の受け渡しは台の上に置いて行う。また、女人禁制のため男性から買わなければならない。万が一、他の者の手が触れた場合は切火を3回行う。このような潔斎によって、神様に近づくため、神様を尊ぶために身を清めた。 現在の潔斎は神社内の潔斎館に集まって行われる。勤め人は朝弁当と水を持って仕事に行く。帰るとお祓いを受けて、潔斎に入る。
ここで紹介する中山氏の写真は以前の形態で行われていた頃の写真です。ただし、役馬の朝馬までの記録です。
このページの制作に当たっては小室浅間神社の宮司・佐藤様にご説明を頂きました。ここに感謝の意を表します。
参考資料: ・山梨県の祭り・行事―山梨県祭り・教示調査報告書― 平成11年3月31日 山梨県教育委員会発行 ・富士吉田市史 民俗編第二巻 平成8年3月25日 富士吉田市発行 ・冨士山下宮 小室浅間神社ホームページ {URL : http://www.fgo.jp/~yabusame/]
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