昨日7/23、NHKの「クローズアップ現代」で故・吉田秀和さんの話題が採り上げられていました。
“そこに自分の考えはあるか” 音楽評論家・吉田秀和の遺言 http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3232/index.html
私はクラシック音楽が好きになって以来、吉田秀和さんの解説や評論にたびたび接してきました。先頃亡くなった後も、NHK FMで生前に収録された番組が放送されていました。あの独特な語り方は「我思う、ゆえに我あり」という言葉にふさわしいものでした。感じたこと、考えたことを自分に正直に言語化する。感じることも考えることも主体は「私」であるということ。認識とは、評価とは、感じること、考えることの絶えざる繰り返しであると常に気づかさせてくれるのが吉田さんの語りかけです。
このことを突き詰めていくと、「自由とは何か」「自律するとは何か」「私とは何か」というところに行き着きます。「あなたはどう感じたか」「あなたはどう思うか」。主体は自分であるはずなのに、他者の言葉を使ってしまったり、心にもない言葉を出してしまったりします。社会に生きていると、そう言うことによりはじきものにされてしまうという恐怖があるのかもしれません。雑踏の中にまぎれて、自己主張しないようにする保身の心理があるのかもしれません。
感動したことを感動したと言うこと。感動したことはまぎれもない事実で、そのことを誰も否認できません。逆につまらなかったことをつまらなかったと言うこと。そう感じてしまったことを自分が否定することはできません。
感じたことを言う。考えたことを言う。 日本社会では他者からのコミットメントが少ないのではないかと日頃から感じています。世間というものが大きなバリアになっているという一面もあります。
教育…でも考え直すのがよい一面があります。人はface to faceで対面すると人間的なコミュニケーションができていると勘違いしやすい。人と人が対して自分の感じたこと、思ったことを言うのが基本ではあるけれど、見えない壁に阻まれて人はその人の自由に気づけないでいるのではないか。むしろface to faceほど人にとって怖いものはないのではないか。その人にとって最もふさわしい支援のあり方や選択肢があるはずなのです。見方によっては、これまでの社会が個人を押しつぶしてきたかもしれないと疑ってみる方がよいかもしれません。
番組で引用されていた吉田さんの言葉「流行を前にした無条件降伏主義、 大勢順応主義と過敏症を、これほど正直にさらけ出している国民は珍しいのではないかと、私は思う。」というのは、私も思うところです。
感じる心、考える心を見つめ直してみたいと考えているところです。
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