真言宗智山派 海禅寺 真田家祈願所 人形供養寺
寺の歴史 海禅寺は、その草創は少なくとも平安前期にさか上ると推定され、上田小県地方切っての古刹である。 今の東御市に海禅寺という集落があるが、これは開善寺(海善寺の旧名)があったから名づけられた地名である。 開善寺は古くから皇室と縁の深かった滋野氏や、その系統を伝える豪族海野氏の祈願寺として栄えた。 戦国時代、武田信玄が小県郡を平定したとき、まず願文を捧げたのは、名社生島足島神社と、この開善寺であった。 その後、天正年間、真田氏の上田築城に当たり開善寺は、城の東北(鬼門)に移され、海善寺と改称、上田城下町鎮護の寺となった。以降四百年その間、学問所が設置され、談林所としての役を果たし県下真言宗の名刹として今日に至っている。
昭和五十六年十月二十三日 長野県文化財保護審議委員 東信史学会長 黒坂周平 (海善寺参道入口寺標より写す)
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