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オープンデータうえだby長野大学前川ゼミ

沼田公園(城址)[2015-12/23]

カテゴリ: 真田一族の史跡 地域: 群馬県
(登録日: 2016/02/12 更新日: 2017/01/29)

沼田城址


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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

沼田城は天文元年(1532年)沼田顕泰が約3年の歳月を費やして築城した。沼田城は・・当時は蔵内城のちに倉内城と称し沼田市街地発祥のかなめで当市の歴史の起点でもある。築城して48年後の天文八年(1580)に武田勝頼の武将真田昌幸が入城し城の規模を広げた。 天正18年(1590年)に昌幸の嫡子信幸が城主となる。 信幸のちに信之と名をかえる。
関東北辺の小さな山城であったが、三方を急流と断崖に囲まれた自然の要塞であり、また関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝として、戦略的な価値は大きく、しかも沼田氏の内紛により城主朝憲が謀殺されたため、北から上杉、南から北条、西から真田の各勢力が進出し激しい争奪戦を展開した。
天正18年(1590年)真田家初代城主となった信之は城郭の拡張を行い二の丸、三の丸を築き、水手曲輪に大門を建てた。
さらに慶長12年(1607年)五層の天守閣を造営し、その威容は天下の名城「霞城」と称された。しかし、天和元年11月五代城主信直が改易となり、翌年正月幕府により威容を誇った名城は破壊された。
元禄16年(1703年)本多正永が幕府の交付金で城を再建し、その後黒田氏、土岐氏の居城となり明治になって取りこわされた。
現在三の丸跡には学校・民家が建ち、本丸、二の丸跡は公園に変貌した。
 

平八石


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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後、載せた石。

沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12顕泰側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかれて、永録12年(1569年)正月朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。平八郎は12年の沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。 真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貧慾な美濃守は己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる。」倫り城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。時に天正9年(1531年)3月14日(一説は15日)平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。
 

鐘楼


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記録日: 2015/12/00

寛永11(1634)年、領内の安泰を祈願して真田河内守信吉に鋳造されながらも城の破却などで浮沈の運命をたどった「城鐘」を保護しようと、明治32(1899)年旧沼田町役場敷地内に建てられたのが「鐘楼」。
 昭和39(1964)年、市庁舎改築で取り壊されるまで、市民には「時鐘(ときのかね)」として親しまれ、昭和58(1983)年沼田公園内に復元されました。
 

御殿桜


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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

   (樹齢推定 400余年)
沼田城の天守閣か、5層の雄志を誇っていたころに植えられ、今にのこっている沼田城形見の名木である。
沼田城は初め蔵内城と称した。約440年前、沼田市12代の沼田万鬼齊顕泰が、3ヶ年かかって天文元年(1532)4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。
顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主にせんと企て、永禄12年(1569)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。
以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18年(1590)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。
信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604)この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の曲輪門を築造。ついで慶長12年(1607)今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。
それから77年後天和元年(1681)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は跡形もなく取壊された。
名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。
 

沼田城 本丸西櫓台の石垣・石段


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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

天正元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉、武田(真田)、北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷を辿ってきました。

 天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は、正式に真田氏の所有する城となりました。

 真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改造を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五層の天守を始め各種の櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行いました。

 しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は滅ぼされました。

 その後、本多、黒田、土岐氏と城主は変わり、明治を迎えますが、城の本格的な復興はなされませんでした。

 発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられています。

 五代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと言われてきましたが、壊されずに地中に埋められていた部分が300年井所を経て再び往事の姿を現しています。
 
 発掘部分の石垣・石段は前兆27.5m、石垣の高さ0.8から2.0mとなっています。
 

マップ

その他の写真

(12件)
01 公園入口 02 公園内の自販機 03 公園内の自販機右横 04 公園内の自販機左横
05 観光案内所 06 観光案内所内部 07 公園案内 08 ロータリー
09 上野国沼田城絵図 10 公園内で飼われているインコ 11 公園内で飼われているウサギ 12 真田時代沼田蔵内城絵図

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