お北殿(1536〜1600?) 中野箱山城主・高梨政頼の娘であり、真田信綱に嫁ぐ。 信綱寺に華翁妙栄大姉とある。 『小県郡御図帳』には、お北殿知行として合計13筆80貫文が見えており、 真田昌幸に代替わりしてからも上田周辺で多くの知行を有していたことが明らかである。 『滋野世紀』には、「真田河内守信吉の母は真田源太左衛門(真田信綱)の娘」 とあることからも真田信綱の娘は、真田信幸(信之)に嫁いだことがわかる。 真田信綱とお北殿の間には長男真田信興、次男真田信光らが生まれている。 (http://koskan.nobody.jp/sanada_hime.htmlから引用)
信綱が長篠の合戦で討死にすると、 幸隆の三男である真田昌幸が真田の家督を継ぐことになるのだが、 通常は、幸隆の嫡男である信綱の家系が次代の家督候補に挙がるのだが、 当時信綱の息子たちは皆幼く継げるような状態ではなかった。 そこで、当時仕えていた武田信玄公が、高坂昌信の勧めもあり、 真田昌幸に家督を継がせたという背景がある。
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