真田幸隆公 真田氏中興の大祖 天文年間武田信玄の信州先方衆として活躍、堅固な砥石城を攻略して、 上田進出の基をつくり、川中島の決戦場でも武勇をあげた。 さらに岩櫃城をはじめとする要害所城を次々と攻略をもって北上州制覇の地歩を築く等、 戦国期真田氏台頭の基盤を固めた。
真田信綱公・昌輝公 信綱、昌輝兄弟は、台頭期における真田氏を支えた武将で、殊に信綱は父を助けて上州の攻略、 小県郡内統一に力を尽くした。 天正3年長篠の合戦に出陣、武田方の最右翼として設楽原に出撃したが、 優勢な鉄砲隊にはばまれ、激闘の末兄弟ともに戦死を遂げた。
真田昌幸公 両兄なきあとの真田氏を継ぎ、沼田城を攻略して北上州の支配権を確立した。 さらに武田氏滅亡後尼ヶ淵に上田城を築き、天正13年の上田合戦で徳川軍の猛攻を撃退した。 また関ヶ原の合戦でも上田の孤城で徳川秀忠の大軍を阻止して、真田の武名を天下に轟かしたが、 武運つたなく九度山で波乱に富んだ生涯を閉じた。
真田幸村公 天下分け目の関ヶ原の合戦における上田城攻防戦に、父昌幸を助けて孤塁を死守した。 慶長19年冬の陣の到来とともに大坂城へ招かれ、真田丸を構築して豊臣方の危急を救った。 続いておこった夏の陣では、徳川家康の本陣をおびやかすほどの奮戦をしたので 「真田日本一の兵(つわもの)」と賞賛された。
(公園内の説明から引用)
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