胴合橋(長野市篠ノ井杵淵字胴合)
永禄4年9月10日、川中島合戦の時、山本勘助が東福寺 泥真木(どろまき)明神(勘助宮)付近で戦死した後、 その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首とを 合わせた所という。 朝霧の中から突如として姿を現した越後軍1万2千の 大軍が武田方の備えを次々撃破し破竹の勢いで、信玄 本陣目がけて突進する。これを見た山本勘助は長嘆して 「甲越合戦すること15年、その間大小の合戦十余回 あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった。 しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのを しらなかったのは、わが武運の尽きる時。」と言って 越後勢の中に突入して、家臣もろとも首を落とされて しまったという。勘助の家来たちが主人勘助の首と胴を 合わせた場所がこの胴合橋であったというが、典厩信繁 と言う説もある。 (長野市誌編纂専門委員 岡澤 由往)
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