真田幸村と大坂の役
慶長19年(1614)徳川幕府と大坂の豊臣秀頼方との関係が、険悪になった。そして豊臣方は、
関ヶ原の合戦による牢人を盛んに募集した。そして、この誘いの手は、真田幸村のもとにも届く。
幸村はこの年10月、九度山を抜け出して、大坂城へ入城している。幸村は、九度山での蟄居生
活に、働き盛りの壮年期を過ごすこと14年、既に48才になっていた。
なお、「幸村」という名が一般化しているが、彼の本名は「信繁」と言った。通称は「左衛門
佐」である。
大坂城に入った幸村は、地形的に敵の攻撃を最もうけやすい城の東南の隅に百万四方、一万
坪の出城を築く。そして、約6,000人の人数でここに立て籠った。これがいわゆる真田丸である。
この慶長19年も押しつまってから、大坂冬の陣と呼ばれる合戦が起こるが、大きな戦闘はな
く、目立ったものは、幸村の真田丸での奮戦ぐらいであった。
いったん和睦となった大坂の役も、その翌20年(元和元年・1615)夏、戦いが再開された。
これを大坂夏の陣と言う。
この戦いにおいて幸村は、徳川の本陣を突き崩し、家康を危機に陥れるほどの大活躍をした
のは有名な話である。豊臣氏が滅亡したこの戦いで、幸村もその子大助とともに討ち死にする。
しかし、長く流人として不本意な生活を送っていた幸村にとっては、良い死に場所を得て、名
将幸村の名を後世に残すことができたとも言える。
(引用 真田氏史料集 上田市立博物館)