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長大前川ゼミ:地域の記憶

[12/12/07]真田信綱・昌輝墓所

カテゴリ: 真田氏の史跡(上田) 地域: 上田
(登録日: 2014/10/04 更新日: 2019/05/21)

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記録日: 2012/12/07

 信綱寺には真田信綱夫妻と弟・昌輝の墓所があります。信綱は父・真田幸隆から家督を継ぎ、当主となりましたが、織田信長と武田勝頼の間で起こった長篠の合戦で弟昌輝とともに戦死してしまいます。信綱が戦死したことで、真田の家督真田昌幸が継ぐことになります。長篠の合戦は真田家のその後を変える大きな出来事だったのではないでしょうか。
 

真田信綱・昌輝兄弟
 源太左衛門尉信綱は、幸隆の長子として生まれ、元亀元年(1570)には、父幸隆隠居の後を
うけて真田氏の当主となっていたと考えられる。
 このとき信綱は34才、「武田24将」の一人に数えられているように、既にひとかどの武将と
して知られた存在であった。
 しかし信綱は、天正3年には長篠の合戦で弟昌輝とともに戦死してしまう。
 信綱の死は、真田家の当主となってからわずか5年後のことであった。
 昌輝は兵部丞と称し、武田のムカデ衆として活躍したという。
(引用 真田氏資料集 上田市立博物館)
 

信綱寺看板説明

(1件)
01 信綱寺看板説明


信綱寺伝によれば、この寺ははじめ、字梅ノ木にあっ
て好雪斎大柏寺といいましたが、後に打越に移
して大柏山打越寺と称しました。やがて、須坂
興国時から順京和尚をまねいて、大柏山信綱寺と
しました。同寺所蔵の文禄3年(1594)昌幸文書
に、信綱寺は真田昌幸が兄・信綱の位牌所として
建立したとあります。
ここを信綱の墓所としたのは、真田氏の屋敷があっ
た由緒ある所であるためと推定されています。
享保2年(1717)に現在の高台に再建されました。
 

信綱墓所看板説明

(1件)
01 信綱墓所看板説明


上田市指定文化財(史跡)
真田信綱の墓
 真田信綱は天文6年(1537)、幸隆の長子として
生まれ、父病没の後38歳で家督を継いだが、翌天正
3年(1575)、武田勝頼に従い織田信長と長篠で
戦い、弟昌輝と共に戦死した。
 信綱の首級は、家臣白川勘解由兄弟の手により陣羽
織に包まれ鎧と共に大柏打越寺まで運ばれ、墓前の
桜の下に葬られた。その後打越寺は、信綱公菩提所と
して信綱寺と改称された。
 享保2年(1717)、寺の移築に伴い、墓所が裏山
の現在の場所に移され、夫人と共に懇に弔われている。
近年、夫妻の墓のとなりに昌輝の新しい墓が建立された。
 真田信綱 天正3年5月21日没 享年39歳
      信綱寺殿大室道也大居士
 真田昌輝 天正3年5月21日没 享年33歳
      嶺梅院殿風山良薫大居士
 中央が信綱公、左が信綱夫人、右が昌輝公の墓
 

メディアクリップ

(11件)
01 信綱寺付近の地図と説明 02 信綱寺説明 03 墓所への案内 04 墓所へ続く道
05 信綱夫妻・昌輝の墓所@ 06 信綱夫妻・昌輝の墓所A 07 信綱夫妻・昌輝の墓所B 08 信綱夫妻・昌輝の墓所C
09 墓所説明板@ 10 墓所説明板A 11 墓所説明板B

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