松ヶ岡開墾場を初めて訪れました。松ヶ岡開墾場は、明治の初め、失業した庄内藩の武士たち三千人の仕事を創出するため、松ヶ岡を開墾し、大規模に蚕糸絹業を始めたところです。明治10年までには十棟の大蚕室が建ったといいます。現在もなおそのうちの五棟が残っています。これだけの大規模な近代化産業遺産であればもっと早く世に知られてよさそうなものです。少なくとも私が山形に暮らしていた頃にはその存在は一般には知らされていませんでした。
現存する大蚕室は壮観です。石造の門には「松岡蚕種製造所」と刻まれています。文化財の解説では「養蚕」と表現していますが、生糸生産のための養蚕よりは「蚕種製造」がメインなのではないでしょうか。養蚕業と蚕種製造業は異なります。両者を一緒くたにするのはいかがなものかと思います。観光客向け、一般向けの説明では実態がわからないので、後日、実際を裏付ける資料を探りたいと思います。
大蚕室の特色は蚕種製造施設であったこと。建物が大きな木材で組まれてがっしりとした造りになっています。旧常田館製糸場の繭倉庫が建物の重量を軽くする工夫をすることにより5階建てであったものと比べとその重厚さは比べるまでもありません。雪のある地域では旧常田館製糸場のように軽量にすることができなかったのでしょう。
松ヶ岡開墾場は旧羽黒町にあり、平成の大合併で鶴岡市となりました。鶴岡がシルクに力を入れシルクのまちにする動きを始めたのは私が上田に移ってからのことです。東北公益文化大学の大学院が鶴岡に設置され、新素材開発の研究の拠点となり、その頃から次第に素材開発の原料としての蚕にフォーカスが当たるようになりました。さらには鶴岡市のシティプロモーションのテーマとなる「シルクのまちづくり」が始まり、またたく間に鶴岡がシルクのまちとして全国に知られていくようになりました。
そうした近年の背景があり、松ヶ岡開墾場がその中心的な産業遺産として活用されるようになりました。さらには「日本遺産 サムライゆかりのシルク」の構成遺産ともなり、鶴岡市の誇りともなっています。上杉鷹山の言葉を借りれば、まさに「成せば成る」です。
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