<幡野の大祭 由来聞き書き>
幡野の大祭は、大月市猿橋町幡野の甲引山八幡神社(西暦775年創立)で鎌倉時代から、12年に一度戌(いぬ)の年に開催されています。その祭神は応神天皇で、社殿を飾る幔幕が16弁の菊の御紋を勅許されているのが氏子の自慢とのことです(神殿では応仁天皇と表記)。 大祭は12年に一度、社宝として継承している、「天皇が朝鮮出兵し新羅と戦ったときの勅書と軍旗」をご開帳する、そのために祭典には朝廷から勅使を迎えて開催してきたのだそうです。 なお、朝鮮出兵のみぎり、軍旗を掲げた旗竿は、山梨市下井尻の誉田別神社(主神は応神天皇・忌み名誉田別命)の社宝として伝わっています。
祭典では猿橋町の7地区(自治会)の氏子が、御神輿をかついで山上の八幡神社に上り、地区ごとに獅子舞を奉納する。 (平成18年5月4日付け山梨日日新聞地域版に「幡野の大祭」記事掲載)
<幡野の大祭と朝鮮の関係>
神社の由来では、朝鮮での兵役で破れた(朝鮮の)軍隊が、この地にとまったことから「軍内」と呼ばれ、その後、周辺一帯を「郡内」と呼ぶようになったと言われています。また、その朝鮮の人々が養蚕、織物を伝えたという。このことから、現代に至るまで郡内は、織物産地として栄えているのだということです。
神事の神楽奉納では、獅子が二刀流の剣(つるぎ)の舞をするという、他の神社の獅子舞には見られない特色があります。武器である剣をもって舞うというのは、獅子が武人であるということになりますが、その昔軍隊がこの地にとどまったからなのでしょうか。はっきりしたことは分かりません。
<幡野は「秦氏の野」の意味か?>
幡野の大祭が行われる猿橋町には、日本三大奇橋と言われる「猿橋」があります。この橋は、古代(伝説では西暦600年頃)に百済の匠が構築したといわれます。 (※参考資料としてこのアーカイブとは別にデジ研では猿橋写真ライブラリーを開設しました)
この「猿橋」を、「幡野の大祭」と結びつけて考えると、「古代のある時期に、朝鮮の人たちが、この地にやってきて、定住するとともに、朝鮮の先進技術をつたえたのでは」という仮説が考えられます。 地元の言い伝えでは、大月周辺の山などの名前に大和言葉ではなく、朝鮮語に由来すると見られる地名があると言われています。 また、朝鮮から古代日本に養蚕、織物を伝えたのは秦氏であるという伝説もあります。以上の仮説から、「幡野」という地名には実は「秦の野」=秦氏定住地ではなかったのか、という見方が可能になります。
以上は、空想の仮説ですが、古代の国際交流に思いを巡らせて、素晴らしい地域のテーマとして継続して取り組んでいきたいものです。
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