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真田氏の軌跡

沼田城跡(沼田公園)

カテゴリ: 真田昌幸の生きた道 地域: 群馬県
(登録日: 2016/11/19 更新日: 2017/01/30)


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記録日: 2015/12/23 群馬

沼田城のあった場所は、現在公園となっています。
城の面影はパッと見どこにも存在しませんが、
出土品が多く発掘されています。
また、真田氏時代の石垣が残っており、城があったのだろうなと感じることは出来ました。

(編集者 88)
 

沼田城の説明

(1件)
01 真田街道群馬


沼田城は天文元年(1532年)沼田顕泰が約3年の歳月を費やして築城した。
当時は蔵内城のちに倉内城と称し沼田市街地発祥のかなめで当市の歴史の起点でもある。
築城して48年後の天文八年(1580)に武田勝頼の武将真田昌幸が入城し城の規模を広げた。
天正18年(1590年)に昌幸の嫡子信幸が城主となる。
関東北辺の小さな山城であったが、三方を急流と断崖に囲まれた自然の要塞であり、
また関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝として、戦略的な価値は大きく、
しかも沼田氏の内紛により城主朝憲が謀殺されたため、北から上杉、南から北条、西から真田の各勢力が
進出し激しい争奪戦を展開した。
天正18年(1590年)真田家初代城主となった信之は城郭の拡張を行い二の丸、三の丸を築き、
水手曲輪に大門を建てた。
さらに慶長12年(1607年)五層の天守閣を造営し、その威容は天下の名城「霞城」と称された。
しかし、天和元年11月五代城主信直が改易となり、翌年正月幕府により威容を誇った名城は破壊された。
元禄16年(1703年)本多正永が幕府の交付金で城を再建し、その後黒田氏、土岐氏の居城となり
明治になって取りこわされた。
現在三の丸跡には学校・民家が建ち、本丸、二の丸跡は公園に変貌した。
(沼田市教育委員会)
 

真田氏時代の石垣

(2件)
01 真田街道群馬 02 真田街道群馬


沼田城跡の石垣・石段

発掘調査により発見されたこの石垣・石段は、西櫓台に伴うものであり、
出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。
5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと言われていたが、
壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現したのである。

発掘部分の大きさ(全長27.5メートル 石垣の高さ0.8〜2.0メートル)
(沼田市教育委員会)
 

撮影した写真

(41件)
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