その時、上田は日本のウォール街だった。
2012-05-28
明治の初頭、現在の長野県がまだ筑摩県と長野県に別れていた頃、銀行という近代的金融機関が誕生するまで、その役割をはたしていたのは、いわゆる豪商達によって運営されていた無尽(頼母子講)の様なシステムだった。
1876年(明治9年)合県が行われ、今の長野県が誕生するのと期を一にして、十九銀行の母胎となる彰真社上田支店が原町に開業する。そしてその翌年の1877年(明治10年)彰真社は国立銀行条例に基づき、その本店を上田に移すカタチで第十九国立銀行を設立する。後に、この第十九国立銀行は第六十三国立銀行と合併して、今の八十二銀行となる。
当時、国立銀行条例に基づいて建てられた国立銀行の他に、類似銀行会社が多数存在していた。まず、長野県内における国立銀行は5つあり、それに加えて類似銀行の数は、1884年(明治17)時点で109社にのぼり、その数において長野県における銀行の数は、圧倒的に日本一であった。で、その中でも小県郡内における数は83社にのぼり、県内の76%を占めていた。更に、南佐久郡の9社を加えると、東信地区の占有率は約85%となる。
したがって、『その時、上田は日本のウォール街だった』のである。
これほどの財政規模を支えていたもの、それはもちろん、蚕種を中心に繁栄した蚕糸業であった。
そして、そのことが上田から数々の物語を生むこととなる。
〈トピックス〉
もし、「十九銀行」が「二十銀行」だったら、「八十二銀行」は生まれなかった!
「第十九国立銀行」が「第二十国立銀行」だったら、「第六十三国立銀行」と合併することで20+63=83となり、銀行名は「83銀行」となる。
「銀行にとって破産を意味する83(ハサン)を社名にする訳にはいかない」
当然ですよね。
上田小県近現代史研究会発行「○○○」