瀧澤秋暁「司令塔」~1908年、僕と養蚕の日々
2012-07-04
瀧澤秋暁は文庫派の詩人。小県郡塩尻村秋和(現・上田市秋和)に、明治8年(1875)3月3日、彦兵衛・きちの長男として生まれた。本名・彦太郎。生家は両水館といい、江戸時代から続いた蚕種業を営んでいた。
塩尻村は蚕種業で栄え、その販売網を通じて全国的に名前を知られている。瀧澤家の蚕種の販路は、関東一円から奥州まで広範囲にわたっており、手広く蚕種のための養蚕を行っていた。その家業の日常を小説にしたのが「司令塔」である。
「司令塔」に描かれているのは個人的な養蚕業ではなく、両水館という大きな仕事場での養蚕と日常であり、事業主としての主人公の言動であり、それは小説よりエッセイと言うべき内容である。この主人公は多くの人々に接し、そこからの文化をも享受できる環境にある。「司令塔」はそうした環境をベースにしての話題と解釈が暮らしを通じ、主人公の思いとともに展開していく作品で、そこには作品の背景として限られた範囲ではあるが上田の歴史も導入され、人々の暮らしを知る上での情報も多い。
例えば、明治35年に上田には配電が行われた、と一口に年表化されていく歴史だが、隣町にまで来ている電氣が自分の住む秋和にはまだ配電されない、と嘆く秋暁がいて、大きくアバウトに限られていく歴史の中で、地域性や個々の暮らしによって実際には緩慢な広がりを見せる歴史的事柄がある。そうした捉え方からみると、「司令塔」には歴史的な事柄と向き合う生の人々の暮らし振りが描かれ、歴史を検証して書かれているわけではない文学作品からも、多くの確実で重要な歴史的証言が得られたりするのである。
「司令塔」が「文庫」に発表されたのが、明治41年10月。
投稿文学雑誌「少年文庫」(明治22年創刊)に秋暁は明治25年から投稿を始めた。やがて文庫派の詩人として指導的な役割を負うことになり、「少年文庫」は彼の文学上のホームグランドとなっていく。「司令塔」は秋暁が文学的活動にはいってから約15年後に書かれた作品で、文学への憧憬に戸惑いながら家業を愛し、その蚕と戦う日常を綴った作品である。 (土屋郁子)
瀧澤秋暁「司令塔」(部分引用)
僕の家には『電話室』がある。
ツイ二丁さきまでは、電燈も電話も来て居る癖に、上田の町内でないばかりに、文明の利器を使ふことが出来ぬ。蚕室で、危険いランプを使用して、時たま、粗忽をする毎に、あヽ、電燈であったら、と憶ひ起さぬことはない。
数箇所ある桑置場の一つである、それをこしらへる時、丁度銀行の普請があって、古い金庫室の扉が払ひものに出た、いかさま厳畳で、激しい扱ひをするに恰好らしいので即座それを買ひ取って、貯桑場へ嵌め込んだといふものだ。ところが拵へが片開きで、厳しい金具へ大袈裟な瀬戸の握りが付いているから、知らぬ人が観ると、鳥渡アタリが付かぬ。
(中略)
ところで、も一ツ『司令塔』といふのがある。
二号蚕室の前面に凸起して、下は蚕室の大玄関、上は南の廊下から、廻れ右をして、障子をあけて、障子を上る蚕室の内部からは殆んど存在を認められぬが、登ると五畳敷に、床と押入れのついた小座敷がある。額の風景画は、雅邦、幅は権田直助翁の雲間鶴といふ和歌の二行り、これが季節なしの常備品で、他には碌な装飾品も無い、至って殺風景なものだが、南東西の三面は、硝子を嵌めた明り障子で、樹木も建物も近く目を遮るものは無く、一丈低く広く瞰下するのである。
一年、春の消毒の時、監督に来た吏員が、刺激強いフォルマリンの臭ひを避けて這へ逃げ込んだ。茶を呑みながら四辺を見廻して、『いゝところがありますネ、こりゃ貴方の司令塔ですな』と言ったことがある。
(後略)