2 映画的諸技法とショットの構成システム |
小津作品のさまざまな表現モードの中で最も顕著で誰の目にも明らかな特徴は、映画的諸技法の使用に強い制限が設けられ、それらの構成に著しいパターン化がみられることである。つまり、カメラの低位置固定撮影、被写体に体するカメラの正面性、シークウェンス間における風景ショットの挿入、内容によりほぼ一定したショットの持続時間、ストレート・カットのみによるショットの接続、移動撮影の抑制、同一カメラ位置の設定等々の技法的諸事象と、ショット間の構成にみられる180度ないしは90度のカメラの方向転換、特定のカメラ位置の反復使用といった構成パターンである。
従来の「様式」論では、こうした諸事象をリストアップしながら、その背後に文化的意味(たとえば低位置に据えられたカメラは、日本人が畳の上に坐った時の目の高さに即した視点であるといった類いのもの)を見出すことでとりあえずの了解事項としてきたが、それぞれの事象が文化的な要因から説明できるかどうかはともかく、同時にそれらが作者の設定した物語を極めて特異な映画的ディスクールに変換する手段としてシステム化され、それぞれが相互に作用しあう構成要素であることにも目が向けられねばならないのは当然である。従来の様式論で抜け落ちていたのは、これらが何よりも組織されたものであるとの視点であった。
諸技法の織りなすシステムの基本的な問題点は、次のように整理できるだろう。即ち、それらはいかにして組織されているか、そのように組織されなければならなかった表現の意図は何であるのか、実際の効果はどうであるか。
そこでまず、それらがいかに組織されているかの見通しを立てるため、構成上の最も明確な単位であるショット自体が持つ基本構造を検討してみることにしたい。
小津のカメラについて、しばしば引合いに出されるのは低位置のカメラによる固定撮影の問題であるが、その実体は何かとなると、必ずしも明確ではない。個々のショットは、作品全体の中では、表現内容(物語)と表現形式(映画)が相互規定しあうコンテクストの中に位置づけられていくが、ショット自体は被写体とカメラとの相互規定によっても各々決定される。つまり被写体の選択とその大きさ、配置関係等によってカメラの位置が定まり、カメラによって被写体空間が枠取られ、フィルムに記録されるという関係である。
ところで、カメラが画面の空間構成を決定づけ特徴づけるのは、さまざまなカメラの属性がそこに働いているからである。つまり、カメラと被写体との距離、被写体に対するカメラの方向、角度、高さ、動き、そしてレンズの特性にかかわる焦点深度、フォーカスの軟硬等である。カメラの位置は距離、方向、高さによって定まる。動きは位置の変化のことであり、固定撮影も一つの選択された動き(不動)とみなすことができる。
初期の作品では、パン、ティルトなど後年には用いられなくなったカメラの動きや、ノエル・バーチが指摘するようなハード・フォーカスとソフト・フォーカスのシステマティックな使用などがみられ(*1)、『父ありき』では広角気味のレンズの使用によって画面の奥行感を強調した空間構成がみられるが、後期作品ではそれぞれが概ね等価のものに統一されるか、それぞれの属性の中に極めて明確な段階が設定されている。全ショットを通して等価還元されるのは、角度(概ね水平)、高さ(概ね低い)、動き(不動)、レンズ(標準レンズの選択)であり、距離と方向のみが被写体とのかかわり方によって価値を変える。
距離の段階設定は、中心となる被写体が人物か室内空間全体かによって異なり、他に風景、屋外空間、空間内のディテールを示すショットがそれと異なる基準で設定される。設定される段階は概ね次の通りである。人物ショットの場合は、胸から上ぐらいの上半身、坐像全身、立像全身の三段階で、画面内人数の違いにより多少の変化がある。室内空間ショットの場合は、室内各部の空間(座敷、台所、玄関等)をほぼ完全に収める距離と、室内にいる人物の方へやや寄った距離の二段階になる。なお、立像全身の場合は、室内全体を収めるいずれかの距離が自動的に選択される。
カメラの向きは、人物、室内空間の場合とも対象に対して正面に向けられることが多く、斜め、後ろの向きが用いられることもある。
このようなカメラ設定の条件づけは、まず画面内構成に対しての価値を持つ。おそらくその主な目的はよく指摘されることだが、構図を安定させることに向けられているのであろう。考えられるもう一つの理由は、あらゆる対象を同一のかたちに均してしまうことによって、全体の流れから突出するような画面をなくし、すべての画面を対等な関係に保つためであろう。これについては後で触れることにしたい。
一方、カメラ=画面空間に対する時間的単位であるショットの持続時間も、ショット内の情報量、個々のショットの受け持つ機能によって長さが決定され、一定の基準に基づいてショットが分節されることになる。まず分節基準に置かれるのは、交わされる一つ一つのセリフの間、人物が別の室内空間へ入る瞬間、立つ・坐るといった動作の移行の瞬間であり、各々のショットの持続時間は、あらかじめ単位化された情報量と条件(一つのセリフを語るのに要する時間や人物の動きを示すのに要する時間、但し空間が設立または再設立されるショットでは他のショットより時間はかなり長くなる)に規定されている。
このようなカメラ設定とショット分節の作業の本来の目的が、いかに説話的世界を見せるかにあることは言うまでもあるまい。小津の場合のそれが他の作家の場合と異なるのは、物語内容の如何にかかわらず、あらゆる構成段階でも一貫してくるようなシステム(秩序関係)が組み上げられてしまっていることである。そしてこの秩序を維持する関係を成し、システムの構成要素となるのが、段階設定された距離関係、空間内に設定されたカメラ相互の方向性(カメラは被写体に正対し、360度の範囲に設定されるので室内の場合は90度単位での方向転換が生じ、人物の場合はその位置関係から180度の切り返しが支配的になる)、同一被写体との関係で設定されたカメラ位置の関係、同一のカメラ位置設定によって分離=単位化された個々の被写体の位置関係等である。
これらの相互関係は、連続した空間(特定のセット)ないでの限定的な関係であるが、個々の空間の様相は互いに類似し、人物の位置関係も似たようなかたちで設定されるため、外形的なレベルではこれらの関係が最後まで維持されることになる。構成パターンは、古典的コンティニュイティの方法を極めて循環的に組み直したものと考えられ、ショットはシークウェンスと作品全体の両方の枠内で次のように構成順が整えられる。シークウェンス内では、まず空間全体が提示され、<a空間設立ショット→b会話のやりとりに即した個々の人物ショット(上半身)の切り返し→c空間再設立のショット>と続き、以下bとcが交替した後、最後にa(またはc)が戻る。作品全体では、風景、人物のいない室内空間、物を示すショットが循環構成に関与し、作品の冒頭部、シークウェンス間の移行部、作品の終結部に数ショットずつ並置される。
小津が、被写体との強い関係性から次第に組み上げていった諸技法間のシステムは、物語の展開に即して運用されながらも、さまざまな意味作用ないしは効果を、生産あるいは保証する秩序として働いているように思われる。小津作品に認められるさまざまな約束事項を人はしばしば「文法」と呼ぶが、一般に映画の文法と呼ばれるものは、擬似現実として構築される説話的流れを観客にとってわかりやすくするために技法の運用を規制し、それが慣習化した運用法のことを指している。従って仮に小津作品の諸規則を「文法」と呼ぶにしても、それが普通に言われるいわゆる「映画の文法」と全く性質を異にするものであることは言うまでもあるまい。さらに言うなら、小津が無関心を表明し、あるいは次第に廃棄していった技法が、世に言う「映画の文法」であることに目をとめてみるのは面白い。たとえば、小津がすぐに廃棄したディゾルヴやフェードは、物語時間の経過や夢・幻想の導入、場面転換、シークウェンスの区切り目を指し示す記号(句読点、引用符)としてコード化されていた限りにおいて価値づけられているものに過ぎない。同様のことは、小津がシステマティックに無視したイマジナリー・ラインの原則、視線の一致の原則などについても言える。
そこで注目されねばならないのは、何を廃棄したかでなく、慣用化された諸技法の運用法(コード)から離れることで可能になった映画の内在的な機能を外在化させながら、それに基づいて表現を次第にシステム化していった展開が見られることである。